2010年2月13日の対談



Y: 健さん、こんにちは。 

Aloha健:  Aloha!

Y: 明日はバレンタインデーですね! 健さんは学生時代のバレンタインのとき、チョコをたくさん貰えましたか?

Aloha健: いや、そんなことないで〜。 高校のときで大体、本命が2〜3個、義理チョコ含めても10個未満やったと思うし・・・

Y: (なんや、自慢か?) へぇ。 バレンタイン前になると、いつも国生さゆりの「バレンタインデー キッス!」っていう音楽が流れますね。 1曲定番があればずっと生きていけるのが芸能界だと思いますが、最近芸能人ってすごいなと頻繁に感じます。

Aloha健: どういう点が?

Y: なんて精神的にタフなんだろうということです。 専門的な有名人、例えばスポーツ選手であれば人より明らかに優れたものを武器にしているわけで可視的なので人は納得しますが、芸能人はそういう突出した武器がないこともあります。 そういう背景もあって芸能人は見下されがちです。 しかし武器はあるではないか、そのタフな精神だよ!と思うのです。 芸能人は一般人だととてもじゃないけれど精神が崩壊するようなことに耐えていますよね。 例えばあることないこと騒がれバッシングされたり、どこにいても注目されてプライベートがなかったり、人気が続かないこともありますし。 自分が商品で、周りからも商品として扱われ続けるということは、物凄く強靭な心の持ち主か、または鈍感でないと精神に支障を来たすと思います。

Aloha健: 確かになぁ〜 このあいだゴマキのお母さんの葬儀がTVに流れてたけど、あれも「母親が死んだゴマキ」をゴマキが演じてるって感じやったもんな。 別に報道陣をシャットアウトしてもいいわけやのに。 

Y: もはや自己と他者の区別がつかないのだと思います。 例えば日常的な出来事や校内のイジメなど、ごく狭い範囲に起こった出来事でも人は傷つき欝になったり自殺するような繊細な生き物なわけです。 それは「自分」という自分が創りあげている像が傷つけられたりすると起こります。 そのイジメが全国規模で大々的に起こるのです。 ゴマキ母の葬儀の映像を私も見ましたけど、集団イジメとしか思えませんでした。 

Aloha健: 身近に起こったことのほうが傷つきやすいのかもしれんけどな。  

Y: いや、身近な人でも赤の他人でも、批判されて快適な人はいないと思います。 もちろん人からどう見られてもいいや、と思う生き方をすれば何も感じなくなる可能性はありますが、芸能人は人からどう見られるかということに左右される人気商売ですから。

Aloha健: まぁ俺は繊細やから無理そうやな・・・ 

Y: 芸能人などは、もはや見分けがたくなるまでに、自分や周りの創造したもののうちに変装していますよね。 創造したものに向けて飛翔しようとするのは、今まで生きてきた自分の記憶を忘却したいがためのようです。 しかしその創造したものを目指すうちに耽溺してしまうことが多いし、自分を偽り続けることに困憊するわけです。 嫌悪感と闘い、絶えることがない不信感をと闘い続け、それが栄光を渇望させるのでしょう。 どこまでいけるかの耐久レースです。  そのレースに挑むタフな精神が尊敬に値すると思います。 

Aloha健: そのレースに挑むんはすごいけど、なんか気の毒な話やな。 毎日サーフィンして子ども達に囲まれて幸せな暮らしをしたらいいのにな〜。 

Y: (それ、自分のことやんけ)

Aloha健: ほな、波が俺を呼んでるし波乗り行ってくるわー! マハローさいなら! 毎日幸せ〜! 越えて〜 越えて〜 越えて〜〜 

Y: (ゆず、歌って、オリンピック気分やな・・・)