2011年2月28日の対談



Y: 健さん、こんにちは。 

Aloha健:  Aloha!

Y: 今日は28日です。 もはや「30がつく日」というのは名ばかりですが月末ということでお話をしにきました。

Aloha健: ほんまやね。 まぁ話にきてくれて嬉しいわ。 最近すっかり春めいてきてるよね、ウグイスが鳴き始めてるし! 受験シーズンも終わりに近づき、旅立ちの季節って感じやな。

Y: そうですね。 そういえば受験で思い出しましたけど、最近考えていることがあるんです。 未来の人間における真の能力についてなんですが。

Aloha健: 真の能力?

Y: そうです。 能力といえば知力体力などいろいろありますがここでは知力の話です。 例えば人は自分の知力を上げるために文字を読むことが多いと思います。 これは大人の読書も子どもの学校での勉強も一緒です。 しかし読書は時間がかかります。 私は読む本が常に貯まっているので、読み始める前によく「これを30分で読めたら効率がいいのになぁ」などと思うわけです。 そこでふと「本を読む」って何だろうと考えました。 人は本を読む過程が楽しいのか、それとも読んだものが知識として残るから読むのか、ということです。

Aloha健: うん、うん、それで? 

Y: 一般的に読書とは、物語や小説などは読んでいる過程を楽しめて、教養本は読んだ後の知識増加やそれをアウトプットするために読むという感じだと思います。 でもどちらにしても読み終わったあとは単なる「記憶」になります。 例えば「面白い物語を読み進めた記憶」や、「本に書いてある知識の記憶」などです。 つまり先ほどから何が言いたいのかといいますと、現在脳科学や神経学が進んでいるわけで、将来、「〇〇という本のデータ」みたいなものが脳に直接記憶できるような時代が来たら「読書」はどうなるのかなぁと考えていたわけです。 それでも読書をするのか、と。 例えば電気ショックか何か分かりませんけど、「1〜100ページの分」など小分けに記憶を植えつけられるなら、過程も楽しめる上に短時間で知識も増えるわけです。 そのような状態になったとき人が本を読むとは思えません。 ということは、人が「本を読む」のはそれが脳に「知識」として残ればいいだけ、「経験」として残ればいいだけだということになります。 読む過程はあまり必要ないのです。 そして最初の話に戻りますが、将来記憶を植えつけられる時代が来たら、「本を読む」ということは必要なくなるかもしれないと思ったわけです。 

Aloha健: 記憶を植えつけるっていう実験、何年か前にオックスフォード大学の科学者チームがやったっていうニュースがあったよ。 ショウジョウバエに人工的「記憶」を組み込むと、その新しい「人工記憶」をもとに行動するようになるっていうやつ。 人間に適用できるようになるのか、また適用できるとしてそれがいつになるのかとかは分からないらしいけど。 

Y: えー!!! やはりもうそういう試みがあるのですね! マトリックスとかの世界ですよね。 そしてやっと本題ですが、もしもそのような「読書記憶」などを植えつけることができるようになった場合、今の知力や学歴というものなど、そういった全てのものが無価値になるわけです。 現在でも情報化社会なのでネットがあれば知識を細切れに得ることができ、昔と比べると誰もかもが俄か「知識人」です。 だから将来「情報化社会」ならぬ「知力化社会」みたいな感じで、誰でも本や教科書を読んだ記憶が脳に植えつけられるという世の中になったとき、人間に求められる真の能力とは何になるんでしょう? 知力はあって当たり前、それを活用する能力や創造する力が必要になるんではないか、と思うのです。

Aloha健:  そうやなぁ。 でもY君が言ったように今も情報化社会だから、ある意味、「その『情報』をどう扱えるか、どう応用できるか」みたいなところに能力が求められるような時代に入ってると思うよ。 単なる詰め込み学習みたいな時代はもう終わってるよね。

Y: どうしたらそういう真の能力っていうか、応用力みたいなものが身につけられるんでしょうね。 それが今後の世代の教育テーマにもなると思うので、健さんも研究しなければいけませんね。 

Aloha健: 最後の最後になんちゅう無茶振りや! えらい難しい課題を振ってきよったな・・・ でも自分の孫ぐらいの世代の子ども達がどんな力を求められるのかということを想像するのは必要だし楽しいことやな。 というわけで海で考えてくるわ! ほな、波が俺を呼んでるし波乗り行ってくるわー マハローさいならー! 

Y: (逃げよった)