2012年2月29日の対談



Y: 健さん、こんにちは。 

Aloha健:  Aloha!

Y: 少し春を感じるときが増えてきました。 温かくなってくるとワクワクしますね。

Aloha健: そうか? いや、そうやな! 確かに。 

Y: (・・・ん?) ところで健さんは政治には詳しいですか? 今の総理大臣の方針に対して批判などはありますか?

Aloha健: 批判? 政治に対しての人々の姿勢って、最初から批判やな。 今まで批判されなかった総理大臣なんておらんし、逆に批判されず賞賛されるのみの総理大臣がいたら、それはそれで大問題やがな! 

Y: あ、はい。 確かにそうですけど・・・

Aloha健: 大体な、人は「温かくなってくるとワクワクしますね」には「そうですねー」、「政治に不満はありますか?」に対しては「もちろんいろいろとありますね、たとえば・・・」みたいに反応が決まっとる! 強い固定観念、もしくは妥当なラインみたいなものが染み付いてるんやな。 1つ1つのことに対峙して深く考えず、また、質問者も「大体こんな反応をするだろう」という確信がありながら質問しとるわけや。 反応の妥当ラインは、1つ目は強者より弱者の味方であるということ。 支配することができる政治家は悪の要素があり、一般市民は善というような雰囲気。 2つ目には「みんな仲良くコミュニケーションをとりましょう」という共通意識。 そのために天気の話題やお互いの健康状態を気遣ったりするわけや。 

Y: (今日はやたら強気やな・・・) ま、そう言われりゃ身も蓋も無いですが。 

Aloha健: 身はあるわい! こういうのは昔から社会によくあることで、例えばクラスの半数が受験に受かり、半数が落ちた場合、倫理的に正しいことを言わないといけないと思っている先生は「落ちた人の気持ちを考えて行動しましょう」と言い、落ちた子が受かった子に対して「あんたは受かったからいいよねー」と嫌味を言ったり威張ったりする。 もちろんそれは悔しさの反動だけど、努力して受かった子は今まで必死に努力した結果が報われただけで、その嬉しさが阻害されなきゃならない理由なんてない。 子ども達だって「あの子は頑張ってたのに落ちた」「あの子は適当にしてたけど受かった」とか、いろいろ判断材料はあるんだから、それにお任せしたらいいと思うのに、一括倫理指導みたいなんはよくないよね。 その一括指導が、さっき言った「反応が決まる強い固定観念」に繋がっていくんだと思うわ。 でも大事なのは1つ1つに対して自分で判断をすることやで。 たとえ受験に落ちたという一時的弱者であっても卑怯たっだり潔くなかったりする姿勢は批判されるべきだし、逆に、高望みせず無難に適当に受験して受かった一時的強者が、頑張ってたけど落ちた人間に威張ったりすることは批判されるべきや。 これはさっきの政治家と一般市民に置き換えても同じことが言える。 

Y: なるほど。 じゃあ健さんが今言ったような社会になり、誰もかもが主観的であろうが客観的であろうが1つ1つに対して判断する風潮になったとします。 批判されるべき弱者に対しては「お前は手を抜いてただろ!だから強者になってないんだよ!」と言うことが正しく判断した言動ということになり、それが発展すると、「お前は努力はしているけれど、もともとの能力が低いんだよね」という正しく判断した発言が飛び交う世の中になる可能性も考えられますが、それについてはどう思いますか?

Aloha健: こわ〜!! こわすぎる〜!!! そんな殺伐とした社会、恐くてボクちゃん生きていけないわ! ほな、波が俺を呼んでるし波乗り行ってくるわー マハローさいならー! 

Y: (どないやねん)