2010年3月23日の対談



Y: 健さん、こんにちは。 

Aloha健:  Aloha!

Y: 昨日は野外学習だったそうで。 お疲れ様でした。 楽しい会でしたか?

Aloha健: そりゃあすごく楽しかったよ! 公園でケイドロをして走りまくったしな。 そのあとはバーベキューでお腹を満たしたあと、砂浜でキャッチボールや砂のかけ合いをしたし、動き回ったなぁ。

Y: そうですか。 それはよかったですね。 子ども達はやはり無邪気ですね!  昨今、学級崩壊などが話題になりますが。

Aloha健: 学級崩壊かぁ。 ニュースとかでたまに特集されてるよね。 今問題とされてる学級崩壊って、教育が振り出しに戻った状態なんやと思うよ。

Y: (おっと、レトリック出ました!奇先法!) どういう意味ですか? 説明してください。

Aloha健: それはやなー、2つの概念を考えないといけないと思う。 1つ目は規律化ということや。 規律化とは、同じ制服を同じように着る、決められた時刻に通い決められた校則に従う、自分の意志が反映されないところで決められたクラス割りによってそのクラスの一員となり生活する、こういうシステムに従うことや。 これは生徒の自由行為への制限、そして直接には身体への強制を意味することになる。 そして大事なことは、これは服従する主体、つまり生徒がいて初めて機能することや。 

Y: (次は・・・、反復法を使いながら漸層法!)  体罰の可否が問われたりしますもんね。 2つ目は何でしょう。 

Aloha健: (厳しい視線を感じるが何を分析してるんや?) 2つ目は学校という場所についてや。 学校とは異質性を持つそれぞれの家庭やコミュニティから子どもを切り離す場所なんや。 そして規律がある環境に適応するよう、異質な行為を制限し、型にはめることが学校という場所の目的だったはずなんや。 つまり規律化ありきの学校という場所が、学校という場所ありきの規律化を探す、というように手段と目的がごっちゃになってるわけや。 異質性を整形することが目的だった学校が、異質性を受け入れてしまったから、教育が振り出しに戻ってしまってるんやと思うよ。 

Y: (おーっと、今度は前辞反復と畳点法か!) なるほど〜 

Aloha健: (何をごにょごにょ言ってるんや?) 俺の行ってた中学では英語の教科書を一語残らず何もかも全部覚えないといけなくて、3つ以上間違えたらそこから1つ越えるたびに木の棒でお尻を叩かれてた。 それはそれは厳しかったし、もちろん体罰がいいとは言い切れないけど、体罰禁止にしたら学校の先生は立場を保つのが難しくなるわな。 

Y: (ここに来て、強調重複ですかぁ!やりますねぇ) そうですね。 奥の手なしで規律化するなんて無理ですもんね。 

Aloha健: (さっきから何を一人で盛り上がってるんやろ・・・) まぁそういうこっちゃ。 学校という場所が中学までは義務だということ、そしてその目的は規律化なんやということをもう1回考えんとあかんわな。 じゃないと学校の先生が自分で自分の首を絞めることになるし。 ほな、波が俺を呼んでるし久しぶりに波乗り行ってくるわー マハローさいならー! 

Y: さいならー!  (いつもの結句反復で締めか・・・レトリック中継、結構楽しいぞ、、、むふふ)