2009年6月13日の対談



Y: 健さん、こんにちは。 

Aloha健:  Aloha!

Y: 入梅しましたけど晴れの日が続いてますね〜 湿気はありますけども。 梅雨ですし波は最近ないですね。

Aloha健: 波ないね〜 今日は土曜で遠いところからサーファーがいっぱい来てるけど浮いてるだけやもんな。

Y: それにしても最近のニュースでビックリしたのが足利事件の冤罪の話。 本当に悲惨な話ですよね。 無期懲役刑の執行停止により釈放された菅家さんは無実の人なわけです。 真犯人じゃない人を起訴し服役させてしまったなんてとんでもない話です。 真犯人は罪を償うこともなく自由な暮らしをしてきたわけですしね。 ところで「罪」とはどういうもので、いつ許されることなのでしょうか?

Aloha健: 人間は生きている限り罪を犯してしまう可能性はあるな。 「どんな過ちも犯さない人は常に何事も為さない人である」 っていう言葉を何かで読んだことあるけど、積極的に生きている人間はそれだけ過ちも犯す可能性が高くなるわな。 ホリエモンなんて何で風説の流布みたいなこじつけの理由で刑を受けるのか今だによく分からんやろし。 いつ許されるのかというのは誰が許すかによるんちゃう? 神かな〜

Y: 神といえばイエス・キリストを思い浮かべますが、預言者エレミヤはなぜ悪人が富み栄え善人が災いに苦しむのかに問題意識がありました。 そして「君がどんなにソーダで洗っても、灰汁をたくさん増やして洗っても、君の罪は私の前に汚れたままである」といいます。 イスラエルは一旦犯した罪は皮膚や骨肉まで食い入って自らの手で洗い流すわけにいかないほどの深い罪だと意識しているということです。 それぐらいまで追い詰められ悔いる罪を許すのが神の存在です。 日本人とは感覚が違いますね。

Aloha健: 仏教では罪を償うには自分が修行し苦しみに耐えて得を積む必要があることになっているわな。 極限まで行くと昔の武士のように自分で腹を切って詫びるしかない。 ハラキリは極限の修行ということや。 キリスト教では罪はいくら修行しても償えるものではなく、許すことができるのは神であるイエス・キリストだけ。 自分自身が救われるには深く信仰すればいいということになるんやろな。 

Y: クリスチャンと日本人を比較すれば罪の意識の差が分かりますね。 クリスチャンは罪を犯すときも神が見ているという念があって行動し、あとになって神に懺悔します。 罪とは自分自身で洗い流すことができないもので、許すことが出来るのは神という絶対的な存在です。 それに引き換え日本人はやはり仏教寄りなのか、自分が修行し自分が辛い思いをすることで罪ほろぼしをします。 「古事記」のなかに黄泉の国から戻った伊邪那岐命が、自らの身についた汚れを取り去ろうとして海辺でみそぎをするシーンがありますが、日本人には水に流すことで汚れを取り去ることができ清められるという感覚があります。 結局、罪は誰でも犯してしまうものだけれどもそれを何かの方法によって許し許され乗り越えるということが大切になるのですね。 

Aloha健: そうやな〜 「許す」か・・・ 

Y: 実はこれは最近の私のテーマなのですが、自分も他人もどんどん許していける人間になりたいと考えています。 許すとは難しいことです。 私はなかなかその辺りが頑固で白黒ハッキリつけてしまう人間なので・・・

Aloha健: おーーー!!! どんどん許していく姿勢、いいねぇ!!  ちょっと怠けててても許される、ちょっとトチっても許される、ちょっとズボラでも許される、ちょっとボンヤリしてても許される! 最高やないか〜!!!! うひゃ〜!!!! 

Y: (なんや、いきなりのこのテンション・・・) 許すことと甘いことは違いますよ。 

Aloha健:うひゃ〜 うひゃ〜 うっきゃっきゃ〜  

Y: あの、聞いてますか? 許すことと甘いことは違うんですよ。

Aloha健: うひゃ〜 いゃほーい〜 ほな、波が俺を呼んでるし波乗り行ってくるわー うきゃきゃ〜 最高〜! マハローさいならー! 

Y: (どないしたんや)