2011年12月30日の対談



Y: 健さん、こんにちは。 

Aloha健:  Aloha!

Y: 2011年ももうすぐ終わりですね。 健さんは風邪が流行っている今、体調管理はどのようなことをされていますか? 

Aloha健: 体調管理? それは寒い中でも、雨が降ってても、小波でも、小波どころか湖状態で波がなくても、毎日毎日欠かさず海に入ることや! それで菌を寄せ付けない頑強な肉体と精神ができあがるっちゅうわけや。

Y:  (さすがに湖状態はやめたほうがいいんじゃ・・・) そうですか、またサーフィンの話になりそうなんで、私がハマっていることの話でもしようかと思うんですが・・・

Aloha健: おーいいよ、いいよ。 聞いてさしあげよう。 ほっほっほ

Y: (なんか、ヘンなノリやな) 私が毎年ハマるのは入試問題を解くことです。 それは職業云々ではなく、中学校、高校、大学の国公立から私立まで、偏差値に関係なく、答えを見ずに一受験者として解くことです。 国語と英語だけですけどね。 まぁそれが楽しくて楽しくて、ついつい休日の時間を費やしてしまいます。

Aloha健: 俺もそれは好きなことやけど、単なる計算問題とかは飛ばすし、時間とか計ったりしないし、気になる問題だけをチェックするって感じだけど、Y君はそういうことではないんよね? 

Y: 違います。 時間を計って、無駄だと思われるような容易すぎる問題や悪問も、全部解きます。 もちろん早く終わればそれで終了ですが、きちんと考えたい問題がある場合は時間いっぱいまで粘ります。 受験生の気分を味わっているわけです。 だから健さんと違って、良問や難問になるべく当たるという意味では効率が悪いので、これは趣味の領域です。 

Aloha健: へぇ〜、何の目的で?  

Y: それは学校のカラーを垣間見れるということですね。 入試問題を解くことによって学校のイメージを想像します。 国語や英語の問題って、知識を問う問題から長文問題の読解まであるし、どういう生徒を求めているのかっていう表れだと思うんですよ。

Aloha健: ふむふむ・・・ 

Y: 例えば、私立上位校は、国語も英語も、難問で超長文を出題してきますが悪問は見事にないです。 問われる知識は、当然学習指導要領を大幅に超えており、というか無視していて、「どれだけ勉強してきたのか」「どれほど詰めこんできたのか」を問います。 長い学校の伝統と歴史を背負っていて、それを次世代にも受け継がせないといけない、それに相応しい生徒に来て欲しいという印象をうけ、背負っているものの大きさを感じます。 一方、寮生活者が多い学校は、枠にはめられる生活ができるか、共同生活のなかで異端児にならないか、常識的な感覚を持っているかというあたりを意識した生徒集めをするんだな、という印象があります。 

Aloha健: 俺の好きなNはすごいやろ? 

Y: そりゃあ完璧です。 まさに芸術のようです。 問題文選び一つにしても作成者の感性が感じられ、感動して涙が出そうになります。 熱く語らせてもらいますけど、まず、おそらく作成者は毎年毎年、膨大な量の文章に目を通し、本を決め、その本のなかからどの箇所を問題文にするかということを選ぶと思うのですが、Nは無闇に難しい題材や言葉が並ぶようなものを選びません。 漢字なども既習範囲で漢字自体は簡単なものだけれど、その組み合わせで「この言葉を知ってるか」という出題ですし、問題文も問題の出し方も、知識を詰め込んだだけでは太刀打ちできないですよね。 真の国語能力を突いてくるという印象なんですが、では真の国語能力とはどういうものかというと、私は自由で無限の伸縮性を持つ表現能力だと思います。 そういった広大なものの能力を測るような問題です。 しかも、更に熱く語らせてもらいますけど、本や文章というものは、本来、作者にしか意図することは分からないわけです。 これは人が忘れがちなことですが、大切な認識だと思います。 そして、だからこそ、それを前提として問題を作り、模範解答を作るというのは、非常に難しい作業だと思うのです。 しかしNはそこに傲慢な感じ、すなわち「文章を作者と同じように理解している」ということがなく謙虚さが感じられるのです。 模範解答は誰が見てもおそらく納得できるものですし、その解答自体が光っています。 だからNという学校は、非常に自由であらゆる可能性を無限大に追求できる、型にはまらない素晴らしい学校だろうということが、入試問題からも分かるのです。   

Aloha健: (涙、浮かべてるがな) ほな、波が俺を呼んでるし今年最後の波乗り納めに行ってくるわー マハローさいならー! 

Y: (あっさり流しやがって) 健さんが海に走っていきましたので、健さんに代わって、今年1年、ありがとうございました。 よいお年を!